バングラデシュの歴史
バングラデシュは、1947年、1971年と、短い期間に2度の独立を果たした国です。
現代バングラデシュの歴史
イギリスの植民地インド
現在のインド・パキスタン・バングラデシュは、元はイギリスの植民地インドでした。
インドからパキスタン独立
1947年、イギリスが植民地インドから去ります。 その際、インドは宗教を基にインド(ヒンドゥー教)とパキスタン(イスラム教)に分けられます。 これにより、パキスタンは西パキスタン(現パキスタン)と東パキスタン(現バングラデシュ)の、インドを挟んだ飛び地となります。
東パキスタン独立運動
西パキスタンではウルドゥー語、東パキスタンではベンガル語が話されていました。 首都は西パキスタンにあり、パキスタン政府はウルドゥー語を唯一の公用語にしようとしたため、 東パキスタンのベンガル語話者の反発(ベンガル語運動)が起きました。
1952年2月21日、バングラデシュの首都ダッカで、ベンガル語を公用語とすることを求める活動家や学生とパキスタン軍が武力衝突し、 学生たちが犠牲となりました。 母語を守ろうとしたこの精神を記念して、2月21日は国際母語デー(International Mother Language day)と定められています。 バングラデシュでは2月21日(একুশ ফেব্রুয়ারি)は祝日となっています。
1966年、東パキスタンのシェイク・ムジブル・ラーマン(শেখ মুজিবুর রহমান)率いる政党「アワミ連盟(আওয়ামী লিগ)」が、 東パキスタン地域の自治権(国防・外交・通貨以外の完全自治)を主張しました。 脅威を感じたパキスタン中央政府は、ムジブル・ラーマンを「インドと結託した反国家分子」として逮捕、 それをきっかけに東パキスタンでストライキ(হরতার)が活発になりました。
パキスタンからバングラデシュ独立
1971年、ムジブル・ラーマンの激により盛り上がる独立運動と、それを鎮圧するパキスタン中央政府・軍の間で独立戦争が始まります。 インドは東パキスタン独立を支持しました。 そして4月10日、ムジブル・ラーマンは「バングラデシュ人民共和国」として独立を宣言し、 初代首相、後に大統領となりました。
photo from http://bangladeshembassymanila.org/wp-content/uploads/2012/12/Sheikh-Mujib1.jpg
1971年5月にはパキスタンはバングラデシュを制圧、 また東パキスタン内の反独立派(パキスタン支持派)による ベンガル人の大量虐殺が行われ、大勢がインドに難民となります。 それを機にインドが介入します。
インドはパキスタンを侵略し、1971年12月に第3次印パ戦争が起きます。 インドが優勢になり、1971年12月16日にパキスタンはバングラデシュ独立を認めることになり、 東パキスタンはバングラデシュとして独立します。
ムジブル・ラーマン殺害と軍事政権
1975年8月15日、軍将校とCIA工作員によるクーデターが起き、 現職の大統領であったムジブル・ラーマンその家族がダッカで殺害されます。 その際イギリスに居たため殺害を免れたムジブル・ラーマンの娘、シェイク・ハシナ・ワゼド(শেখ হাসিনা ওয়াজেদ) は、 後にバングラデシュ帰国を果たし、アワミ連盟の党首、総理大臣(প্রধান মন্ত্রী)となります。
クーデター後は軍事政権となり、バングラディシュ民族主義党(BNP)を率いる軍人大統領ジアウル・ラーマンによる 独裁政治となります。 しかし彼も、軍内部反乱により殺害されます。 その後、軍人のエルシャド中将が軍事政権を樹立しますが、学生運動等による民主化の波に押されて、1990年には退陣します。
民主化後の2大政党
1991年、民主化後 初の総選挙で、 ジアウル・ラーマンの妻、カレダ・ジア率いるバングラデシュ民族主義党(BNP)が勝利し、 BNP党首カレダ・ジアが首相に就任します。
1996年の総選挙ではアワミ連盟が勝利し、党首シェイク・ハシナが首相に就任します。
2001年の総選挙では再びBNPが政権を取ります。
次の総選挙は延期が繰り返され、2008年に行われます。 今度はアワミ連盟が再び政権を奪取します。 このように、アワミ連盟(党首 シェイク・ハシナ) とBNP(党首 カレダ・ジア)の2つの政党が交代で政権をとっています。 どちらも党首が女性、というのも興味深いですね。